むずかしい曲にも挑戦できるようになったけど、いまいち弾いていてしっくりこない。もっと作品と一体化した感覚で弾きたいと思うことはないだろうか。
そんな思いに対して一助となる弾き方を紹介したい。
それは「内奥にある完成された音楽のイメージ」をもつことである。これをもつことであなたの演奏は劇的に変化する。
わたしが演奏する際には、この「内奥にある完成された音楽」を一番の核としてもっている。
実際これがないとまったく一貫性がなく、ふにゃふにゃフラフラした演奏になってしまうのだ。
ここでのポイントは二つあって、一つは「完成された音楽のイメージ」もう一つは「内奥にある」ということ。その両方を同時に意識することがわたしの演奏の要になっている。
なぜこの二つが演奏の要なのか、まずこの記事では「完成された音楽のイメージ」について説明していこう。
もっと上手に弾くために”完成された音楽のイメージ”をもつ
誰でも不安定な演奏より、完成度の高い演奏の方が好ましいはずだ。
ならば、あらかじめ自分の内側に「完成された音楽」のイメージを持てばいい。後はそれを表現するだけなのだから理屈は簡単だ。
内側にある「完成された音楽」を表現するためのからだの使い方についてはこちらを参照していただきたい。
ここからは「完成された音楽」への気づき方やその効果についてお伝えする。
“能動的演奏”から”受動的演奏”への切り替えがもたらすもの
その曲にふさわしい曲想というものがあるけれど、いざ弾こうとしたとき、そういう気分になれないときがある。(10代の頃のわたしはなかなか気分が安定していなかった)
情熱的でエネルギッシュな曲なのにそんなに盛り上げられない。軽やかな曲なのに鬱々とした気分が抜けない。厳粛な音色が欲しいのに気持ちが入り込めず薄っぺらい音しか出せない、など色々。
弾こうとするとき、意識が気分に左右されていては安定した演奏などできない。かといって無理に気持ちを切り替えようとしても疲れるだけだということがわかった。
だから自分で能動的に音楽(曲想)を作るなんてことはやめた。
それより、自分で作らずとも元々目指したい完成された音楽(例えばCDで聴くプロの演奏イメージ)があるんだと信じて、ただそれを自分の内側に聴いて(イメージして)そのように弾いてみることにした。
つまり、演奏するときは音楽(曲想)を作るのではなく、自分の内側にすでに完成された状態の音楽があって、それを忠実に表現するだけだと意識を切り替えたのだ。
作らずとも自分の内側にすでにあるのだから、それを受動して(感じとって)演奏すればいいだけ。
このように“能動的演奏”から“受動的演奏”へと切り替えた。わたしにとって効果はバッチリあった。
何より曲想を作らなくていいので、精神的にラクになった。
常に受動的に、音楽を感じとって弾く。自分の内側に聴こえた通りに弾けばいいのだから、ある意味指示待ち人間でいいのでラクなのである。
ラクなのはいいけど、表現される音楽に何か違いはあるのか。
能動的演奏(意図的に曲想を作る)
厳粛な気分を作ってと…えっと、厳粛な気分て? このぐらい? 何か入りこめないなぁ。
受動的演奏(完成された音楽がすでにあるとしてそれを聴きとって弾く)
あ、厳粛な音が聴こえてきた。うわぁ、深く沈んだような音…。なんか引き込まれていく。
能動的演奏(意図的に曲想を作る)
純粋無垢な音色でって…あぁ、なんか違う。なんか重い。なんかバタバタする。
受動的演奏(完成された音楽がすでにあるとしてそれを聴きとって弾く)
うわぁ、すごく明るい。軽やかな音が聴こえる~。粒がそろってる~。
自分で意図的に作って弾く場合も、自分の内側にすでにあるとする音楽を聴いて弾く場合も、どちらもイメージを介しているのだけれど、そこにエゴがあるかないかの違いで表される音楽の質が大きく違ってくる。
聞こえた印象として大げさにいうなら、前者は作為的、押しつけがましさ、不自然、違和感といったものを所々に感じてしまうし、後者には調和的、自然、奥行き、流れといったものを全体的に感じられる。
当然、後者に表れる性質のほうが音楽として望まれるはずだ。
しかも後者の弾き方のほうがラクなんだから、これをおすすめしない手はない。
結論として、自分の内側にすでにあるとする完成された音楽を聴いて弾く受動的演奏の方が要らぬ労力がないので精神的にラク。なおかつ、音楽的完成度も高いといえる。
しかし、逆にどれぐらい自己の内面にある音楽を感じとって表現できるのか、という感受性を磨くことに注力しなければならない。
演奏とは自分の内側にある音楽に意識を向けること
ここで確認すべき大事なことがある。
それは、完成された音楽がすでにあるとは、自分の内側に(その時点での)出来上がった音楽がすでに存在していると信じるということだ。
そして、それを聴いてから(それが聴こえてから)外側に表現していくことをわたしは受動的演奏としている。
だから受動的演奏といっても、適当に、偶発的に音を鳴らしてつなげていく演奏ではない。行き当たり合ったりで音を鳴らすのではなく、まずは自分の内側にある音楽に意識を向けるということから演奏がはじまる。
物理的に鳴った音ではなく、鳴る前の段階に注目する。そう、まだ聞こえていない自分の内側にある音楽を聴きながら弾くのだ。なので、自分の内側に意識を向けていく能力が重要になってくる。
弾こうという意志よりも、聴いて弾こうとする意志が大切なのね。
自分の内側にある音楽を聴く。今思えば当たり前のことなんだけど、こういうことって、わたしの場合はレッスンではまったく教わってこなかった。音をイメージして、とは言われたけど…。それは断片的な作業でしかなかった。
そのせいもあってか、音楽そのものが自分の内側に存在しているという発見にたどり着くまでに結構時間がかかった。人によってはそんなの常識だよ、ということもあるだろう。でもわたしはそのことに対して無自覚だったし、そのようにはっきりと教わることもなかった。
演奏は”待ちの姿勢”で弾く
「聴いて弾く」ということを果たして多くのピアノ学習者は実践しているのだろうか?”聴く”前に”弾こう”として勇んではないだろうか。
慌てずとも、作らずとも、自分の内側にすでに存在しているのだからそれを聴けばいいだけ。聴こえてくるのを待とう。
しかし、ここで反論が起きるかもしれない。
音楽とは心で歌うものだよ。そんな受け身でいいの?もっと主体的なものじゃないの?と。
音楽は歌うもの、確かに主体的(能動的)に歌いたくなる時が正直ある。でもそれは自分の内側にある音楽を無意識のうちに、そして衝動的に感じているからだと思う。
歌いだすにしても、歌いだしたくなる何かが自分の内側に存在しているからだ。また歌わなきゃならない場面では、自分の内側にある歌になっていく何かに焦点を当てているはず。
歌うにしたって結局は内側の衝動に従っているのだ。
歌うことはこころと直結しているので自分の内側とつながりやすい。だから音楽とこころ(感情)が離れてしまっている状態が実感しにくいかもしれない。感情を感じることと歌うことがほぼ同時に起こっているともいえる。
そもそもほとんどの歌は感情を表現するために作られている。感情とは主観的な意識。だから歌うことは主体的だと感じられるのだろう。
ピアノの場合は10本の指で複雑な動きをしているので、即、演奏=感情という風にはならない。
複数の声部を聴きとらなければならないので注意深く音楽を聴くことになる。そこには感情以外に感じとれる音楽の様々な要素がある。広がり、色彩、ハーモニー、緩急、まだまだいっぱい。
感情とはそれらを感じとった結果、それに応じて引き起こされるものなのではないだろうか。なので、とりたてて感情を込めなくても演奏は成り立つ。
また、感情と距離を置いているからこそ音楽を俯瞰して感じることができるのだ。演奏するときはこの俯瞰という視点が大事だと思う。
このように演奏とは、音楽に元々備わっているエネルギーを感じられることで十分に美しいし、そこに自然に感情が生まれ、加わったものであればそれでいいのだ。無理に自分から働きかけなくても、いやむしろ働きかけない方がいい。ひたすら自分がどんな風に感じたのか、それを表すことが重要だから。
ピアノを弾きながら歌ってしまうことがあるけど、それは自分の内側にある音楽を感じてそれにこころがのっかっているからなのね。
わたしとしては、
- 音楽は自意識から意図的に作られるものではない
- 主体的に歌っているようで実は内側にすでにある音楽を無自覚に、あるいは自覚して感じとっている
というような認識に至っている。
またそうであるからこそ、能動的演奏ではなく受動的演奏の方が弾く方も聴く方も自然な状態だと感じられるのだろう。
自分の内側にある音楽に意識を向けた結果“音楽自体は自分の感情とは切り離されて自立して存在している”ということがわかる。
わたしたちが歌う時、そのからくりは自分の中にある音楽を感じとってそこに気持ちをのせているのだ。よく先生方は“うたって、うたって”と言うけれど、本当は“感じて、感じて”と言いたいのかもしれない。
ただそこに自分の感情をのせすぎると、ややオーバーな表現になってしまう。
音楽に元々備わっている調和の世界を逸脱しないように感じとっていきたいものだ。
大筋でバランスのとれた音楽が演奏できる
「完成された音楽をイメージする」ことは、自分で意図的に作ろうとするよりもはるかに完成度の高い自然な流れの音楽を演奏することができる。
すでに「完成された音楽」があるとすることで、曲を全体として捉えることのできる意識が芽生える。それによって、内側にある音楽を俯瞰して聴きながら弾くことができるようになる。
弾きながらでも全体像を感じているので、演奏中の修正もよりバランスのとれたものになる。しかも「完成された音楽」というイメージをもっているので、曲全体に対しての今弾いている部分のテンポ感や間合い、ニュアンスなどを自動的に調整してくれるのだ。
自動的に「完成された状態」へともっていってくれるのね!
補足だけれど、ここでいう「完成された音楽」とは、あくまでその時点の自分がイメージできる完成度の高い音楽のことである。(ここ大事!)
楽曲への学びが深まったり、精神的にも成熟すれば、当然イメージできる音楽もそれに合わせて変化していく。
ここで言いたいことは、自分がやるべきことは、そのときそのときのベストである「完成された音楽」が自分の内側に存在すると信じること。それを信じることで「完成された音楽」が自分の自覚できない部分もちゃんと補って演奏を高めてくれるという超お値打ちな情報なのだ。
普通は練習しながら楽曲分析も並行していくので、イメージされる音楽もより「完成された」ものになっていく。そうやって新たに得た知識を「完成された音楽のイメージ」の中に取り込んでいけばいいのだ。
レッスンでは、楽曲の解釈について具体的にアドバイスをもらうことがメインだろう。楽曲分析をすることで知識が深まれば、その曲はより洗練された説得力のある演奏ができるようになる。
つまり、練習が進めば進むほど「完成された音楽のイメージ」も向上するのだ。
仮に楽曲分析が進んでいなくてもいい。おおざっぱであっても「完成された音楽のイメージ」というものが自分の内側にあると信じて、そこにこころの耳をすまして弾けばいい。
「完成された」という魔法のことばをくっつけてイメージするだけで、自分の中で勝手に音楽をそれなりにうまくまとめ上げてくれる。だからこの魔法のことばを信じればいいのだ。これは俗にいう“言霊の力”だと思っている。
まとめ
「完成された音楽のイメージ」の必要性とは、簡単に言ってしまえば、それを持つことで精神的にラクでありながら、音楽的により調和的で完成度の高い演奏が望めるということだ。
そのためには、音楽を意図的に作るのではなく、自分の内側に備わっている音楽への感受性を呼び覚まそう。そして、自己の内面に存在する音楽を聴きとって演奏するという演奏原理というものをもっと意識してみよう。
このように自己の内面にイメージされた「完成された音楽」に意識を合わせて演奏すれば、より安定し、調和的で自然な音楽が演奏できるのだ。少なくともわたしはそのようにして演奏している。
- 自分の内側にある「完成された音楽のイメージ」を聴いて弾くことを受動的演奏としている。
- 受動的演奏は作為性がなく、より調和的で完成度の高い演奏になる。
- 音楽自体は自分の感情とは切り離されて自立して存在している。
- 「完成された音楽」ということばの力が、イメージする音楽を常にその言葉通りに導いていく。
最後までお読みいただきありがとうございました♪
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