ラクに弾けて表現力もアップするピアノ演奏法【からだは受動的に動かす】

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ピアノを弾くことが好きなのに、思うようにからだが使えなくて満足のいく演奏にならないと感じている人は多いのではないだろうか。

かつてのわたしがそうだった。思うようにからだを動かすことができず、不満足な演奏をしていた。そしてよりよい演奏にするため、いかにからだへの違和感を感じることなくラクに弾けるのかという探究を続けてきた。

現在はかなりいい感じで弾けている。そのベースとなるきっかけはかなり遡るのだが、「内奥にある完成された音楽を聴いて弾く」という受動的演奏に切り替えたことによる。それから徐々にではあるが、ラクに弾けて表現力も格段に上げることができるようになった。

この記事では、そのような弾き方ができるようになった基本的な考えについてまとめている。

からだについての探究は、ピアノを弾くことにとどまらず、自分のあり方ということにも深い気づきを与えてくれた。

今回はわたしが得た精神面での気づきについても書いているので、具体的なからだの使い方については、また記事を別にしてまとめていこうと思う。

私の考えるラクに弾けて表現力もアップする演奏法とは

以前の記事で、ピアノを演奏するとき自分の内側にある音楽を聴いて弾くという基本的なアプローチについて書いた。

それは自分の内側にある音楽を拠り所として演奏するという超基本的な演奏原理だ。

もっと上手にピアノを弾きたい。それが叶う”完成された音楽のイメージ”とは
演奏する際に一番核としてもっているものが「内奥にある完成された音楽」だ。ポイントは二つあって、一つは「完成された音楽のイメージ」もう一つは「内奥にある」ということ。その両方を同時に意識することがわたしの演奏の要になっている。自分の演奏に一貫性や安定性が感じられないのであれば、これを実践すると劇的に変わるはずだ。
ブレない演奏をするための鍵は、”完成された音楽のイメージが意識の内奥にある”こと
意識の内奥、そこは自分の気持ちに左右されないブレない領域。「完成された音楽」が「内奥にある」ということは、その音楽が何かからの影響を受けずに“完成されたまま”でいられるということだ。

今回はその拠り所となる音楽(内奥にある完成された音楽)をどのように表現するのかというフィジカルな面の説明になる。

結論をいうと、「内奥にある完成された音楽を聴いて弾く」という受動的な演奏方法においては、自分の内なる音楽が主なのであるから、それを表現するための肉体の動きも受動的でなければならないということだ。

つまり、演奏する時は聴こえてきた音楽にからだを従わせて弾くということである。

推測になるが、多くの人(アマチュアレベル)は頭で指を動かしている感覚が多く占めているのではないだろうか。そしてこのことは、あまり意識していないか、曖昧にしたままで弾いているのではないかと想像する。

その方法がNGとは言わないが、こと「内奥にある完成された音楽」を表現するなら、からだも「内奥にある完成された音楽」を優先させ、それに従うということを意図して演奏しなければその音楽を外界に表すことはできない。

もし頭で指を動かすことに重点をおけば、その分「内奥にある完成された音楽を聴く」という比重が小さくなってしまう。その状態で表された音楽は十分に「内奥にある完成された音楽」を聴きとって(感じとって)演奏されたものであるとはいえない。

頭を主に使って指を動かすので、「内奥にある完成された音楽」を拠り所として演奏されたものとは言い難くなるのだ。

わたしが考えるラクに弾けて表現力もアップする演奏法は、頭で指を動かす感覚よりも、自己の内側にある音楽に意識とからだを委ねて従わせる受動的な感覚が強い弾き方になる。

なぜラクに弾けて表現力もアップするのか

「内奥にある完成された音楽」にからだを従わせることがなぜラクに弾けて表現力もアップすることになるのか説明していこう。

頭で指を動かす・・・外側から肉体をコントロールする感覚

内側の音楽に従って動く・・・内側の音楽に合わせて自然に動き出す感覚

同じような音に聞こえたとしても、この2つの弾き方は根本的に違うことがわかると思う。

またわかりやすいように次のように言い換えることもできる。

  • 肉体に対して外側から働きかけるのか、内側から動かすのか。
  • 肉体に対して自分から働きかけるのか、内側からの感覚を受容するのか。

動かそうとするよりも動かされる方が使う力が少ないので圧倒的にラクである。なのでラクな弾き方は内側から動かされる弾き方ということになる。

重要なポイントはからだを受動的に動かすことのほうが圧倒的に力みがないということだ。

力みがないということでもたらされるメリットは、ひとつは無駄な力が抜けてからだのこわばりがないのでラクに動けるということ。なので、たくさん弾いても疲れない。

力みがない弾き方 = ラク = たくさん弾いても疲れない

もともとラクに弾きたいという願望があったからこれは大きなメリットね。

もうひとつは、内面にある音楽を表現しようとする肉体に対して抵抗する力がないため、音色や演奏がイメージ通りのものになるということ。

からだを内面の音楽に委ねるだけで、内側で聴きとれる音楽と外側に表現される音楽が限りなく等しいものになるのだ。

自分の内側にある音楽 = 表現される音楽 = イメージ通り

力みというムダな力で内側にある音楽からのエネルギーをせき止めることがないからなのね!

それに対して頭で指(肉体)を動かそうとすると感覚面でのイメージが乏しくなるので、どうしても表現の幅が小さいままだし、力んで音色も固く伸びやかさが出ない。

じゃぁ、ピアノを弾くときに頭は使わなくていいの?

そんなことはない。頭を使うことはたくさんある。演奏中に譜面を読み進めたり、注意深く聴かないといけない箇所に集中したり…

もちろん弾くという動作においても頭を使う。

それは、内面の音楽に意識とからだを従わせた結果起こる打鍵タッチを意識とからだにフィードバックする。そのフィードバックのときに頭を使うのだ。

このように、わたしの場合は弾くという動作において、頭脳も「打鍵タッチを認識する」という受動的な役割になる。

なんだか、ややこしいわね…

要は頭でからだをコントロールしないで内側の音楽に従わせるのよ。

からだを受動的演奏に切り替える

 

ここからは、演奏するときのからだの動きを受動的にするためのアプローチやそれによって得た気づきについてお話しする。

  • ことばの力を利用する
  • からだを受動的にしたことで得た気づき

ことばの力を利用する

わたしが演奏する際に要としている基本的な姿勢は「内奥にある完成された音楽を聴いて弾く」というというものだ。

わたしは、この文言の中にあることばの効果を最大に利用して弾いている。

過去記事では「完成された音楽」「内奥にある」ということばの意図するところの効果を利用しようと書いた。これらは意識を受動的演奏に切り替えるのに役立った。

今回は「聴いて弾く」である。これは演奏するときのからだの動きを受動的にしてくれる。

もちろんこのことばは、意識とからだの両方を受動的にしてくれる魔法のような効果がある。

「内奥にある完成された音楽を聴いて弾く」とは、「聴いて弾く」のだから、聴こえた通りに(感じた通りに)指が動いて音を出すという仕組みになる。それは「内奥にある完成された音楽」に忠実であろうとする弾き方であり、結果そのような音色になる。

わたしは意識もからだも「内奥にある完成された音楽」に対して受動的スタンスで演奏しようという考えを実践しているので、「聴いて弾く」ということばを唱えるだけで意識もからだも「内奥にある完成された音楽」に対して受動的にセッティングされる。

そして、それによってピアノの弾き方が根本的に変わることと表された音楽の違いを体験的に知っている。

 

からだを受動的にしたことで得た気づき

自分自身のこころとからだを一致させることと、内奥で感じた音楽を偽りなく表現していくことが自分への癒し自己肯定感につながった。

そのようになった経緯について少し書いてみる。

 

弾き方に限界を感じていたわたし(音大生の頃)は、「内奥にある完成された音楽」に気づき、それを表現するために180度方向転換しなければならなかった。

それまでは音楽を自己の深い部分から感じとるということをしていなかった。

意識の浅い部分でイメージしていたので指の動きも脳から直接指令を出していたような感覚で弾いていた。

・・・聴こえてくるまでは指を動かさない。自分の意志で指を動かさない・・・

「内奥にある完成された音楽」を聴いて自然に指が動き出すのをひたすら待っていた。

決して自分の意志で動いてはならないと、音楽に肉体が従うのだと強く意図して待っていた。

大げさではなく本当にあの時は死んでもいいと思うほど自分の意志を消していた。

そのぐらい、わたしにとって自分の奥深い内面に従うことが初めてであり未知の領域だった。

それまでは自分の深い内面と向き合ってこなかった。常に人の顔色を窺ってでもいたのだろうか、自分の意識というものが自分の中心にずっと位置していなかった。だから自分でいられるという本当の意味での安心感もなかったように思う。

生き方自体はすんなり変われるものではないけれど、ピアノによって自分の深い内面世界と向き合うことができた。そして自分自身とからだを結びつけて表現することを学んだ。

だからピアノを弾くと、こころの奥深くにある自分というもの(内奥にある音楽)を偽りなく表現できる(受動して弾く)ので疲れるどころか元気になることに気づいた。

まさに自己表現という癒しを得たのだ。

「内奥にある完成された音楽を聴いて弾く」ことは、自分の内面世界にひとつの安心できる居場所を見つけることになった。またそこにある音楽をそのまま表現しようとすることが自己肯定感につながったというわけなのだ。

 

このようにピアノの探究は演奏そのものだけでなく、わたしの精神面においてもとても示唆に富んだものとなっている。

 

まとめ

この記事で紹介した受動的演奏法は、わたしがとにかくからだの違和感を感じて弾くところから脱したいと探し求めてたどり着いたものなので、説明がかなり主観的になっている。

けれど、この受動的な弾き方は別に目新しいものではないのだろうと思っている。

おそらく才能溢れる人たちは、特につまずくことなく早くからこのような弾き方を会得しているのではないかと想像する。

とは言え、本当のところはこの受動的演奏法が最も良いものなのかどうかということを知らない。ピアノの達人がどういう演奏原理で弾いているのか知る機会がないので答え合わせができていないのだ。

それでも自分でたどり着いた「内奥にある完成された音楽を聴いて弾く」という受動的演奏法に満足している。

またこのことばの意図を汲んで演奏することは、演奏そのものの質を上げるだけでなく、自分に対する深い理解と気づきをもたらしてくれた。

改めてピアノを続けてきてよかったと思っている。

<私の考えるラクに弾けて表現力もアップする演奏法とは>

  • 自己の内面にある音楽に従ってからだを動かす受動的な弾き方である。
  • 受動的な弾き方は力みがないのでラクに弾ける。
  • 受動的な弾き方は内側にある音楽と外側に表現される音楽とが限りなく等しいので、イメージ通りに表現できる。
  • 自分の内面にある音楽をそのまま、偽りなく表現できる受動的演奏法は、自己表現という癒しにもなる。

 

最後までお読みいただきありがとうございました♪

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