子育てから解放されて自分の時間を少しずつ増やしていったことで、年に複数のピアノ発表会に参加できるようになった。
それは子どもたちが多数を占めるピアノ教室の発表会や音大出身者の集まりなどいくつかのバリエーションがあるが、結構気に入っているのは大人のピアノ発表会だ。
年齢や経験値に幅があるとはいえ、「大人・趣味・ピアノが好き」という共通の括りで皆参加している。その中でわたしなどは上級者扱いになるが、同じく趣味の世界で楽しんでいるという立場から何かしら共感が生まれ安心感がある。
今回はそんな「大人のピアノ発表会」でわたしが感じたことを書き留めておこうと思う。
- お互いさまの気持ち
- 指から伝わるダイレクトな音に嘘はない
- 直近の発表会でのわたしの選択
- 今回の学び(暗譜について)
この記事は感想なので演奏に関してのHow to要素がないのだが、暗譜についての考えも書いてあるので興味があればぜひお読みいただきたい。
お互いさまの気持ち
大人で趣味でピアノを弾いている人は、誰かにやらされているのではなく好きだから弾いている人たちだ。そういう中で演奏させてもらえるのは、緊張はしても精神的な安心感に包まれる。
なぜなら、皆社会人としてそれぞれに必要とされる役目をこなしながら、時間を作って練習してきたという同士のような感覚があるからだ。
そのことだけでもお互いに心の中で労いと賞賛と尊敬の気持ちをもって演奏を聴けるというものだ。
そういうお互いさまの気持ちがあるからこそ、応援したくなる気持ちや私もまたがんばろうという活力が生まれる。
たとえ失敗したって、この場で演奏するまでのがんばりがあればこそなんだから、しっかり鑑賞し合いたいよね。
当たり前ではあるが、そこでは完璧な演奏が求められているわけではない。
自然と、今目の前で演奏している姿の裏側にある“がんばってきたこと“に思いを馳せながら聴いてしまう。
演奏者のことを知っているわけではないが、忙しい中よくがんばって練習したね。とか、皆の前で披露している姿が素敵だな。とか、年齢を重ねても表現することにチャレンジされていて素晴らしい。などと温かな気持ちになれるのだ。
演奏そのものでだけはなく、そこに至るまでの過程をも含めて(もちろん想像であるが)まるごと鑑賞している感覚になる。
人前で弾くことって緊張はするし、不安だし、努力もいる。それに必ずしも努力が報われる演奏ができるわけでもない。だから拍手とともに、気持ちわかるよ、素敵でしたって心の中で声をかけるのだ。
指から伝わるダイレクトな音に嘘はない
毎回思うことなのだが、初級の方の出す音の響きにハッとさせられる。澄み切った邪念のない音というのだろうか。そこには音楽という動きのある完成されたエネルギーは込められていないのに、とても美しく心に響いてくる。
たとえば、次の音がなかなか出てこなくてある音が必要以上に長く鳴らされているとき、その音色のなんと美しいこと!なんとも言えない純な音でとても心に染み入るのだ。
曲の完成度からは離れていても、ずっと聴いていられる。多分ご本人はテンパっていらっしゃるであろうが、その一音一音にとても癒される。
そこにはテクニックなどはなく、その時その場でできる精一杯の想いが音に反映しているのだろう。
表現は失礼になるが、そのたどたどしいメロディをずっと聴いていたいと思うほど癒し効果が高いのだ。
このことから連想されることは、指から生楽器へ伝わるダイレクトな音に嘘はないということ。
上手い下手とかに関係なく、その人の心境や大げさに言えば人生観のようなものが指先に伝わっているのではないだろうか。
それは楽器演奏に限らず、手で撫でたり握ったりしたときにも伝わる。人の手や指には思いのほか内面が出てしまうと思うのだ。
かつて子どもの頃に弾いていた曲を大人になって弾いたとき、和音一つとっても深みのある響きに変わっていることに気づいたことがある。
たった1音でも、子どもの出す音と大人の出す音では響きに違いがある。それはテクニック的な意味ではなく、生きてきた中で培われた包容力や経験値が自然とその指、からだの動きに反映しているのだと思われる。
無意識にその精神はからだに伝わっているのだと思う。もちろん良いこともそうでないことも。
だから大人の演奏には、上手い下手では片付けられない深い味わいのある音がして、そこが魅力となっている。
直近の発表会でのわたしの選択
発表会にかける思いは人それぞれだと思う。とりあえず無事に演奏し終わろうとか、練習時と同じぐらいに弾きたいとか、楽しんで聴いてもらいたいなどなど。
わたしの場合、始めの頃はリハビリ感覚で人前で弾くことに挑戦することが目的だった。何しろ本番で弾くピアノは、同じ鍵盤であってもどこから弾き始めていいのかわからなくなるぐらいあがってしまうので。
本番で弾く感覚はやはり本番でしか知ることができない。だから本番でのあがりを克服するために恥を忍んで参加していた。おかげでだいぶ勝手がわかってきたし、克服につながる発見もたくさんあった。
もちろん演奏することが好きなので、「たった一つのフレーズでもいいから、緊張から解き放たれて音楽と共にあることを感じて楽しんで弾けたらそれでいい」と、そういう目標を立てたり、実現して満足したりしていた。
ワンフレーズでもいいからなんて、健気ねぇ。
それだけ緊張せずに弾きたいのよね。緊張を超えて思いのままに表現できたときってすっごく気持ちいいんだから。
そのような積み重ねを経て、本番で舞い上がることも随分と減った。なので今回の発表会では大の苦手である暗譜に挑戦しようと目論んでいた。実際今までで一番暗譜で弾き切る自信が大きかったから。
「リハーサルでも暗譜で弾けたし、思い出にがんばってみるか。」と思っていたのだが、順番を待つうちに「あの場で暗譜で弾くとなったらどんな心境になるかだいたいわかるよね?」と心の声がささやき出した。
「確かに暗譜はできるかもしれない。でも今のわたしがそれで気持ちよく演奏できると思う?本番だよ?」
確かに今のわたしが暗譜で弾くのはブランクがありすぎて、単なる挑戦という自己満足でしかない。もちろんそれでもいいっちゃいいのだけど…。
だいたい楽譜を置いてもそれをしっかり見ながら弾けるような曲ではない。ならば暗譜で弾いているのと変らないじゃないかって?
いやいや、楽譜って開いて置いてあるだけで絶大な安心感があるのだ。「その安心感の中で心地良く弾きたくはないか?」と再びささやく。
不安がよぎりながらの暗譜でチャレンジを成功させるか、チャレンジはしなくても安心感の中で満足いく演奏を披露するか。
要は楽譜を置くか置かないかという選択なのだが…。
結局安心感をとった。そして弾きながらこの選択をして良かったと思えた。
なにしろ暗譜するぐらい弾きこんだのだから、楽譜を置いて今までにない安心感の中でほぼほぼ納得のいく演奏ができたのだ。
これはこれで良い経験をした。楽譜を置く置かないに関係なく自分が感じられる音楽を感じたままに表現することがわたしにとっての演奏の醍醐味だから。本番でありながら感覚的にはそれに近い出来栄えとなった。
今回の学び(暗譜について)
毎回発表会では学びがあるのだが、今回は発表会で弾くなら暗譜で弾ける状態にしておくことということを理屈ではなく体験として学んだ。
同時にわたしの価値観は、本番での暗譜というステータスより安心感の中で気持ちよく弾きたいという思いの方が強いのだということもわかった。
何となく暗譜で弾かなきゃ中途半端だというイメージがつきまとったりするが、暗譜で弾けば完成度が高いかと言われればそうではない。楽譜を置いてより良い演奏ができるならその方が価値がある。
そして逆説的ではあるが、より良い演奏のためには暗譜できるぐらい曲を把握して弾くべきということが腑に落ちた体験だった。
より良い演奏になるための大きな大きなポイントが
ということだ。
わたしがブログのサブタイトルにあげている「三位一体を目指す」とは、分離感を無くすことを目指しているという意味だ。
分離感により不安感が増してあがってしまうから。
あがらずに演奏するには多くの要素をひとつに統合して弾くことがとても重要なポイントだと思っている。
今までは内面にある音楽とからだをひとつにすることに着目して探究してきたが、ここへきて苦手とする暗譜も演奏という行為の中に取り込むことが重要なんだなと学んだ。
なので、暗譜は苦手意識が先に立って敬遠していたのだが、演奏を確かなものにしていくために暗譜につながるような練習に切り替えていこうと思った。
本番に暗譜で弾くためというよりも、より深く一体化した演奏にするための暗譜なのよね!
譜読みの段階から意識的にリンクし合って練習することで自然に覚えていけるなと思った。(苦手だという思い込みは捨てた方がいい)
理論的にそれがわかっていても、体験として意識的にリンクさせて練習したのがかなり後の方だったので今回は”ささやき”に従うことにしたのだ。
来年の夏、友人のピアノ発表会に出るので、そのとき暗譜で弾くことに対して不安より一体感の方が勝っていたならは、楽譜を置かずに弾いてみようと思う。
でも直前に不安の方が強かったら、迷わずに楽譜を置くだろう。それは音楽性を優先する選択をしたということだ。
どちらにせよ、音楽的に良い演奏ができることを念頭にがんばっていこうと思う。
最後までお読みいただきありがとうございました♪
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